mikkabi-hurusatoen
三ヶ日みかん狩りふるさと園のホームページにようこそ。スクロールすると地図と営業内容が見られます。
東名三ヶ日IC出てすぐに左折して後は看板にしたがっていけば2分で着きます。
営業時期:11月1日から12月15日(雨天休日)
団体の場合は柔軟に対処させていただきます。
営業時間:9時〜16時
電話:080-1243-5027
FAX:050-3452-0606
みかん購入のみのお客様も是非お出で下さい。
三ヶ日みかん狩り「ふるさと園」は昭和45年(1970年東名高速道路が開通した年)から続いており一時「大パノラマやまや園)として営業しておりましたが、7年前に再び「ふるさと園」に改名し現在に至っております。
南向きの斜面に広大なみかん園が広がり、日当たりが良いのと、水はけが良いのが重なって糖度の高いみかんが自慢です。
なお、当ふるさと園ではお客様に糖度の高い甘いみかんを食べていただくためみかんのサイズをSサイズ以下(SSサイズ、SSSサイズ)にするようにしております。
みかん豆知識
みかんの来歴
みかんの原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国等へ広まったとされる。中国においては古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる文献『晏子春秋』には「橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている。
日本にはタチバナと沖縄にシークヮーサーが原生していたが、3世紀の日本の様子が書かれた『魏志倭人伝』には「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」(生薑、橘、山椒、茗荷があるが、それらを食用とすることを知らない)と記されており、食用とはされていなかったと考えられる。
日本の文献で最初にみかんが登場するのは『古事記』『日本書紀』であり、「垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(日本書紀の訳)との記述がある。ここでの「橘」はタチバナであるともダイダイであるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われており、定かではない。
その後も中国からキンカンやコウジ(ウスカワミカン)といった様々なみかんが伝来したが、当時のみかんは食用としてよりもむしろ薬用として用いられていた。
日本の「ミカン」[]
ミカンとして最初に日本に広まったのはキシュウミカンである。中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現熊本県八代市)に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた、それが15 - 16世紀ごろ紀州有田(現和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられた。また江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得た伝説でも有名である(史実ではないとされる。詳細は紀伊国屋文左衛門の項目を参照)。また江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州からキシュウミカン(ホンミカン)が献上され、家康が植えたこの木が静岡地方のみかんの起源とされている。 静岡のみかんの起源には富士市(旧富士川町)の農夫が外国から移植した経緯もあり、家康が起源のみかんとは歴史も古く品種も異なる。
ウンシュウミカンは当初「長島蜜柑」「唐蜜柑」等と呼ばれていたが、種子を生じない性質から武士の世にあっては縁起が悪いとされ、ほとんど栽培されることはなかった。しかし江戸時代後期よりその美味と種なしの利便性から栽培が行われるようになり、明治27年(1894年)頃から生産を増やして徐々にキシュウミカンに取って代わるようになった。「温州蜜柑」との呼称が一般的になったのもこの頃である。
栽培の拡大[]
明治時代に入ると、以前よりミカン栽培に力を注いできた紀州有田はもとより、静岡県や愛媛県等でもウンシュウミカンの栽培が本格化する。産地の拡大により市場競争が始まり、栽培技術の改善や経営の合理化が図られるようになった。またアメリカのフロリダに苗木が送られたのを皮切りに北米や朝鮮にも輸出されるようになり、日本国外への展開も始まった。昭和初期にはナツミカンやアメリカから輸入されたネーブルオレンジ等も広く栽培され、みかん市場の成長は最初のピークを迎える。その後太平洋戦争に突入すると、食糧増産の煽りを受けて栽培面積は減少し、資材の不足と徴兵による労働力の減少により果樹園は荒廃した。戦後の復興期もしばらくは食糧難の解消が最優先とされ、栽培面積の減少が続いたが、数年後には増加に転じ、1952年に戦前の水準まで回復した。
そのまま高度経済成長の波に乗り、ミカン栽培は飛躍的な伸びを見せる。復興ブームによる果実消費の増大によってウンシュウミカンは高値で取引されるようになり、一部では「黄色いダイヤ」とも呼ばれた。1960年以後は行政施策の後押しもあって全国的に過剰なまでに増産され、1968年の豊作時には計画生産量を上回った。この頃には完全に生産過剰となっていたがなおも増産は続けられ、1972年には豊作とこの年から始まったグレープフルーツの輸入自由化の影響により価格が暴落。ピークの1975年には生産量は終戦直後の約8倍にあたる366.5万トンに達していた。
近年の動向[]
生産過剰に加えて1970年代よりアメリカからオレンジ輸入枠拡大の要請が強まり、政府はミカン栽培縮小へ方針を転換した。政府の政策は他種への改植を促すことにもなり、ウンシュウミカンの栽培面積が年々減り続ける一方で、他のみかんの栽培は拡大した。
1980年代からの日米貿易摩擦の中で1991年にオレンジの輸入自由化が始まった。円高も相まってオレンジの輸入が増大する一方で主に北米向けに行われていた輸出は途絶え、ミカン栽培は危機を迎えた。これに対して各産地では生産調整、品質の向上、価格が高い早生や極早生への切り替え等で対応し、ウンシュウミカンの価格は傾向として一時的に上昇した。しかし農家の後継者不足や果樹消費の多角化等、日本のミカン栽培は今なお様々な問題を抱えている。
近年では新たな販路として日本国外への輸出拡大が試みられており、主な輸出先である北米の他にも香港や台湾といったアジア諸国への輸出も始まった。
主な品種と出荷時期[]
極早生温州[]
9月から10月頃に掛けて収穫される。1970年代に発生したオイルショックを受けて、ハウス栽培における石油消費量を減らす目的で研究が進められるようになった。近年は生産過剰気味である。
宮本早生
宮川早生の枝変わりとして1967年に和歌山県下津町(現海南市)の宮本喜次によって発見され、1981年に品種登録された。果実は扁平で、収量性に優れる。宮川早生よりも2-3週間程早く成熟する。かつては極早生温州の中心品種であったが、後の品種改良で誕生した極早生品種に比べ糖度が低く食味が劣るため近年では栽培は激減している。
日南1号
興津早生の枝変わりとして1978年に宮崎県日南市の野田明夫によって発見され、1989年に品種登録された。比較的樹勢が強く、じょうのう膜が軟らかい。栽培容易で糖度、酸度ともに安定しているため栽培が広がり、現在では極早生温州の中心品種となっている。
日南の姫(日南N1、ニュー日南)
日南1号の枝変わりとして2008年3月18日に品種登録された。日南1号と比べ減酸や着色が早いため、8月下旬から収穫可能な超極早生品種として栽培が広がりつつある。日南の姫(ヒナノヒメ)は都城大同青果株式会社の登録商標である。
岩崎早生
興津早生の枝変わりとして1968年に長崎県西彼杵郡西海町(現西海市)の岩崎伝一によって発見された。極早生の中でも最も早く出荷される品種のひとつである。
崎久保早生
松山早生の枝変わりとして1965年に三重県南牟婁郡御浜町の崎久保春男によって発見された。三重県の主力品種。
上野早生
宮川早生の枝変わりとして1970年に佐賀県東松浦郡浜玉町(現唐津市)の上野壽彦によって発見され、1985年に品種登録された。減酸が緩やかなため、他の極早生品種に比べて収穫時期が遅れるが、その分食味は長く保たれる。また浮皮の発生が少ないのも特徴である。
ゆら早生
宮川早生の枝変わりとして1985年に和歌山県日高郡由良町の山口寛二によって発見され、1995年に品種登録された。他の極早生品種に比べ糖度が高く、じょうのう膜が極めて薄く、多果汁であるため食味がよい。樹勢が弱く、さらに小玉果が多いため栽培が難しい。
YN26(紀のゆらら)
2001年に和歌山県果樹試験場によりゆら早生の珠心胚実生から育成され、2012年に品種登録された。ゆら早生よりも糖度が高く、減酸や着色も早く、樹勢も強い。ゆら早生同様にじょうのう膜が薄く多果汁であるため食味がよい。小玉果が多いという欠点はゆら早生から引き継いでいる。栽培および苗木の供給は和歌山県内に限られている。紀のゆららは和歌山県農業協同組合連合会の登録商標。
早生温州[]
10月から12月に掛けて収穫される。比較的単価が高いことから、中生や普通温州からの切り替えを進める産地もある。
青江早生
1892年(明治25年)頃に大分県津久見市青江で発見された従来木の枝変わりの早生品種。日本初の早生温州とされる[9]。1903年(明治36年)に広島県大長に導入されたほか、日本全国に広まった。現在ではほとんど栽培されていない。
宮川早生
1910年頃に福岡県山門郡城内村(現柳川市)の宮川謙吉邸にて発見された枝変わりを、1925年に田中長三郎が発表した。育てやすく収量性が良いなど優れた特徴を持つため、古くから全国的に広く栽培されるようになった。食味がよいため現在でも早生温州の代表的な品種で、ハウス栽培用としても広く用いられる。また、袋掛けを行い樹上で越冬完熟させたものなども出荷されている。
興津早生
1940年に農研機構(旧農林省園芸試験場)において宮川早生にカラタチを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1963年に品種登録された。宮川早生と比べて着色が1週間程早く、樹勢が強い。宮川早生と共に早生温州の代表的品種である。
田口早生
興津早生の枝変わりとして1978年に和歌山県有田郡吉備町(現有田川町)の田口耕作によって発見され、1995年に品種登録された。興津早生と比べ糖度が高く、減酸が早い。幼木のうちは大玉果になりやすいという欠点がある。
木村早生
宮川早生の枝変わりとして1976年に熊本県で発見された。宮川早生と比べ糖度が高く、じょうのう膜が薄いため食味がよい。大玉果になりやすく浮き皮が多く、さらに隔年結果になりやすいため栽培は難しい。
英語表現[編集]
英語で本種は satsuma mandarin と呼ばれる[2]。欧米では「Satsuma」「Mikan」などの名称が一般的である。
"satsuma" という名称は、1876年(明治9年)、本種が鹿児島県薩摩地方からアメリカ合衆国フロリダに導入されたことによる[2]。なお、その後愛知県尾張地方の種苗産地からアメリカに本種が渡り、それらは "Owari satsuma" という名称で呼ばれるようにもなった[2]。
タンジェリン (Tangerine)・マンダリンオレンジ (Mandarin orange) (学名は共にCitrus reticulata)と近縁であり、そこから派生した栽培種である。